見えないものの姿を求めて
by nagasakitenrei
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カテゴリ:典礼と秘跡( 51 )

準秘跡

多くの人が聖堂に入る時に聖水を用いて十時架のしるしをします。聖なるもののしるしは時として迷信のように用いられる恐れもありますが、たとえば聖水がないと何かもの足らないように感じるからといってそれがそのまま形式主義というわけではありません。
教会が歴史の中で七つの秘跡を明確に区別して以来、秘跡以外の聖なるもののしるしは準秘跡と呼ばれています。準秘跡は当然のことながら魔法ではなく、助力や恵み、祝福を神さまに願う祈りです。聖水も食事の祝福も十時架のしるしも、人生の様々な場面での祝福のしるしなのです。
ちなみに、「聖別」という言葉は、人や事物を完全に神のために取り分けるときに用います。聖別されたもの自体がしるしとなります。一方、「祝福」とは、人や事物を神さまの特別の御保護のもとに置くために教会が祈るものを言います。ですから、祝福はよい目的のために用いるものだけに限られ、たとえば武器の祝福はありません。
祝福を自分がいる場所にもたらすのはすべてのキリスト者の聖なる任務です。悪に対抗して平和と救いをもたらし、すべては神さまの祝福に依存していることを思い出させるためです。
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by nagasakitenrei | 2008-01-15 13:19 | 典礼と秘跡

「はい」という約束

愛は長く続くことを求めます。愛はまた忠実であることを求めるものです。これは愛が失われた時、あるいは傷つけられた時、その苦しみの大きさが教えてくれることです。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マタイ19・6)とは、神さまご自身が、愛が続くことを望んでおられるということを教えています。同時にこの言葉は、愛が自動的に永続するものではないことも明らかにしています。
結婚の約束は、快不快や感情の変化を超えて新しい現実を生み出すものです。結婚の契約は、神さまが忠実な方であることに保証された約束なのです。
一度きりの「はい」という答えに生涯を託すのは要求が高すぎるように思われるかもしれません。イエスの弟子もそう考えたと、新約聖書は伝えています(マタイ19・10)。それでも、人が人に信頼することを学んだのはどこであったか振り返ることはできます。一度きりの「はい」が、教会をまた世界を支えています。「はい」という約束が多くの人に支えと勇気を与えているのです。
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by nagasakitenrei | 2008-01-15 13:17 | 典礼と秘跡

結婚(婚姻)の秘跡

結婚は人間社会と同じ起源をもつ共同生活であると同時に、キリスト信者にとっては秘跡でもあります。結婚は神さまが天地創造の秩序の中に組み込まれたものであると教会は理解しています。人をご自分の似姿としてお造りになった神さまが、男と女として人間をお造りになったからです。神さまがお造りになったものを御覧になると、「それは極めてよかった」(創世記1章31節)と聖書は伝えています。
結婚が秘跡なのは、それが愛の姿だからです。結婚は、人間を愛し続ける神さまの忠実で変わらない無私の愛のしるしです。葛藤や不誠実、嫉妬や人間関係の間違いなど、結婚生活が沢山の困難を伴うとしても、それは結婚そのものからではなく、創造の姿から離れてしまった人間の傷から生じるものです。
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聖書には神さまと神さまの民が結んだ契約を結婚の約束として、神さまの人間に対する愛の力強さ、激しさが描かれています。キリストが流した血は、キリストの花嫁と呼ばれる教会に対する愛のしるしです。そして結婚の秘跡はこの神さまの愛のしるしなのです。

写真:「聖家族」(ナザレ/聖家族教会)
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by nagasakitenrei | 2007-10-18 13:23 | 典礼と秘跡

助祭職

第二バチカン公会議は、西方教会で長い間形式化していた助祭職を固有の身分として復興しました。司祭候補者の助祭叙階は今も行われていますが、元来助祭職は司祭職とは区別されたものです。それは準司祭といった位置づけではなく、叙階の秘跡によって受ける役務としての奉仕職と理解されます。これによって既婚者も含めた永久助祭がふたたび教会の中に見られるようになりました。司祭同様この役務は司教に結ばれています。
f0136327_1321075.jpg司祭が叙階によってキリストの祭司職のしるしとなるように、助祭は叙階によってキリストの奉仕職のしるしとなります。助祭は「仕えるために」来られたキリストのしるしです。ですから、助祭は、助けを必要とする人への奉仕、みことばへの奉仕、祭壇での奉仕を特別の任務としています。単なる役割としてではなく、身分として、神さまと人に仕えておられるキリストのしるしだからです。

(写真:「弟子の足を洗うキリスト」 フランス/ブルターニュ地方の石彫)
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by nagasakitenrei | 2007-08-27 13:23 | 典礼と秘跡

司祭職

すべてのキリスト者は洗礼による司祭職を持っています。その目的は神さまと人との親しい交わりを実現することです。聖霊の働きかけを受けて、信じ、希望し、愛するとき、洗礼による司祭職が果たされていきます。神さまとの親しさによって人が親しく結ばれる、これが聖なるものになる、ということです。
教会は、人の集まりとして沢山の困難を抱えているとしても、この聖なるものの見えるしるしと考えられています。そして、洗礼による司祭職を豊かにするために、言い換えれば教会がより聖なるものになるために力を与えるのが、みことばと諸秘跡です。それは、人が聖なるものとなって救われる、という究極の目的に向けられたものです。
f0136327_15334916.jpg叙階の秘跡による司祭職は、洗礼による司祭職に奉仕するものです。それはキリストご自身が絶えず教会を心にかけてくださっていることのしるしです。人が聖なるものとなって救われるためのはたらきが司祭職のキリストへの奉仕なのです。

「わたしを愛しているか。」
「わたしの羊の世話をしなさい。」
(ヨハネ20・16)


(写真:ガリラヤ湖畔/メンサ・クリスティ。ペトロとイエス)
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by nagasakitenrei | 2007-08-26 12:46 | 典礼と秘跡

司教 −使徒の後継者

f0136327_1037374.jpg教会の長い歴史の中で司教職の姿は随分変わって来ました。けれども、司教職の本質的な任務はいつも同じです。それはキリストが使徒たちに委ねた使命を、あらゆる時代、あらゆる場所に伝えていくことです。
この使命の伝達が人間の死によって断たれてしまうことがないように、絶えず後継者が立てられてきました。教父と呼ばれる古代教会の指導者たちは、使徒たちに委ねられた使命と権能が後継者に伝えられていくことを証言し書き残しています。
使徒継承の使命が今日まで有効なのは叙階の秘跡の恵みによるものです。聖霊を受けた使徒たちは、後継者に手を置いてこの恵みを伝えました。これはパウロの書簡にも記されています。「わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。」(2テモテ1・6)
使徒たちの後継者であること、これが司教職の姿です。

(写真:ゼベダイの子ヤコブとヨハネの召命)
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by nagasakitenrei | 2007-08-25 10:34 | 典礼と秘跡

叙階の秘跡(司教と司祭)

f0136327_10461729.jpg叙階の秘跡は、キリストが使徒たちに委ねた使命を引き受け続ける秘跡とされています。それは司教や司祭が、人間としてはそれぞれの個人であるとしても、唯一の祭司であるキリストが「今・ここで」働いておられることのしるしであるということです。
特に典礼において司教や司祭が自分の名で祈ることはありません。教会の名で祈ります。司教や司祭が教会の名で祈るのは選挙で選ばれた代表だからではなく、教会の頭であるイエス・キリストが祈っておられる見える姿だからです。
祭司であるイエス・キリストの姿である、とは畏れ多いことです。人間の力で実現できることではありません。だからこそ叙階は秘跡なのだと言えるでしょう。

(写真:シナイ山頂でミサをささげる巡礼者)
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by nagasakitenrei | 2007-08-24 10:46 | 典礼と秘跡

病者の塗油

病気や苦しみは必ずしも人生の一部ではないはずなのに、実際は人生の一部となっています。そして人はこれを受け入れるほかはない、ということに悲しみを覚えることもしばしばです。それは、人は必ず死ぬということを密かに、しかし確かに教えているからです。
今日では、臨終を迎えようとする人は病院で孤独のうちにその時を迎えるか、家族だけに付き添われることが多くなっているようです。しかし、キリスト者にとって、人の死に際して死に行く者のそばに集まり、最期まで神さまへの信頼を失わないように祈り、魂が神さまのもとに帰るのを見送るのは大切な愛の務めでした。
秘跡の歴史の中で、「終油」と呼ばれるようになった塗油の式は、最期を迎えるその時の秘跡と考えられ、できるだけ後に延ばす習慣が生まれました。司祭があたかも「死の使い」のように受け止められていた時代もあったほどです。
第二バチカン公会議は、この秘跡を本来の姿である「病者の塗油」に改め、死を迎える人だけでなく、すべての病人のための秘跡、人の苦しみに心を動かされて癒し続けるイエスの姿のしるしに戻しました。油を塗って病人を癒すのは、イエスから派遣された弟子たちの務めです(マルコ6:13)。また病人を見舞うことはイエスご自身を見舞うことでもあります(マタイ25:36)。
「病者の塗油」は不治の病を癒す奇跡の薬ではありません。けれどもこの秘跡は病人に力を与え、本人の苦しみをキリストの受難に結んで人間の救いに協力するものとし、捧げられた苦しみを神の民である教会の力にします。
目に見える使徒職を果たすすべての人の傍には、見えない使徒職を果たす人、病気を捧げて支える人がいるのです。
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by nagasakitenrei | 2007-07-06 21:41 | 典礼と秘跡

告白

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」(マタイ9:12)
ゆるしの秘跡では、日常の過失についても告白するよう勧められています。これは、祈りや断食、愛の実践によってもゆるされるものですが、告白を通して、絶えず回心する意思を確かめ、積極的に愛の実践に向かう心を養うためです。
f0136327_1315486.jpg特別の状況を除いて、罪の告白は個別に行います。それはキリストが病人を「集めて」「まとめて」癒したのではなく、ひとりひとりに触れて癒され、罪のゆるしをひとりひとりに宣言されたからです。
告白を聴く司祭は、告白者がキリストに触れていただくために奉仕します。また告白を聴くことで司祭は秘跡の奉仕者として育まれていきます。イエスのいやしの場に立ち合うからです。

(写真:ローマ/サン・ルイ・デ・フランセ教会 「マタイの召命」)
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by nagasakitenrei | 2007-06-26 12:42 | 典礼と秘跡

痛悔と告白

ゆるしの秘跡は主に三つの段階を経ます。痛悔、罪の告白、そして償いの業です。すべてが整って初めて回心の実りが生まれます。
痛悔は三つの内容を持つと教会は教えています。魂の嘆き、罪を嫌う事、もう今後罪を犯さないと決心することです。これには長い時間がかかることもあります。悪を為したこと、あるいは善をなさなかったこと、など、漠然とした不快感や本来の姿ではなかったことについての感覚から、少しずつ過ちを認める心が生まれ、どうして自分がその過ちにかかわってしまったのか問い始めます。そして、この問いこそが自分の正しさに対する慢心を乗り越えるきっかけになるのです。自分を乗り越えること、それは新しく生まれることにつながります。
伝統的に、愛がなかったことを痛む心から生まれる痛悔は「完全な痛悔」、罰に対する恐れから生まれる痛悔は「不完全な痛悔」と呼ばれますが、痛悔は人が努力して獲得するものではなく、神さまの恵みとして与えられるものです。
痛悔は、人に過ちを告白するよう招きます。告白によって和解の責任が果たされるからです。隠れた傷である罪を告白するのは恥ずかしいかもしれません。これについて聖ヒエロニモは、「人が医者に傷を見せるのを恥ずかしがるなら、医者はわからないものを治療することはできない」と、告白者を励ましています。告白を聴く司祭は、イエスのゆるしによって隠れた傷にいやしを与えるのです。
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by nagasakitenrei | 2007-06-24 17:43 | 典礼と秘跡