長崎教区典礼委員会 ngstenrei.exblog.jp

信仰と秘跡

一言で表現すると、秘跡は「見えない恵みを与える見えるしるし」ですから、見えるしるしによって見えない恵みが確かに与えられたことを信じる信仰が必要です。洗礼は「信じます」という宣言に基づいて授けられますし、洗礼以外の秘跡が洗礼を受けていることを前提にするのは、神さまだけがご存知の一人ひとりの信仰について、教会は洗礼を受けているということによってしか知りえないからです。
他の諸秘跡同様、聖体も信仰の秘跡です。奉仕者(司教や司祭)がどのような人物かにかかわらずミサが確かに恵みの場となるのは、それがキリストによって行われるからです。とくに、聖体においては、秘跡の執行者としてだけでなく、パンとぶどう酒の姿でキリストが、真に、現実に、現存されます。ミサの前まで香部屋にしまわれていた薄いパンとぶどう酒が、ミサの中で聖別されるとキリストのからだと血になるのです。聖別の直後に深く礼をして礼拝するのはそのためです。この単純で不思議な出来事を前に、司祭は「信仰の神秘」と宣言するのです。
聖体の聖別は司教・司祭の奉仕を通して聖霊の力によって行われ、一度聖別されたパンとぶどう酒は、パンとぶどう酒であり続ける限り、つまり腐敗したり酸化したりして別のものに変わらない限り、キリストの体と血であり続けます。そこに信仰者が誰もいなくなっても聖体であり続けます。だからこそ、カトリックではミサの後に残った聖体を聖櫃に納め、キリストの現存のしるしに聖体ランプを点し、ミサ以外の時でもキリストの体として礼拝し、訪問し、拝領するのです。2世紀の教会の生活について記録した聖ユスチノも、聖別されたパンとぶどう酒は「感謝されたもの」と呼ばれ、ミサに参加できなかった病人などに、ミサの後に届けると書いています。
(『家庭の友』16年3月号より)

by nagasakitenrei | 2018-09-18 17:44 | 典礼と秘跡