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カテゴリ:エウカリスチア( 16 )

聖布

祭壇を覆う白布(祭壇布)以外にミサで用いられる白布には主に三つがあります。聖体の敷布であるコルポラーレ、聖体の触れたものの清浄布であるプリフィカトリウム、司式司祭が洗った手を拭くマヌテルギウムです。
コルポラーレは正方形をしたものが一般的です。しっかり糊付けされていることが多く、上下に三折り、左右に三折りにしたものを広げて用います。大きさには決まりがありませんが、規模の大きなミサなどでたくさんの聖体器を祭壇上に載せるときには、十分な大きさのものか複数を準備します。聖体のかけらやしずくを受けとめる役割があり、聖体を置く場所には必ず敷くようになっています。ミサの感謝の典礼でカリスやパテナ、チボリウムの下に敷くだけでなく、聖櫃の中や聖体賛美式の顕示台の下、聖体器のすすぎを行う祭器卓、病者訪問時に聖体を仮置きする場所などにも敷きます。ミサの度に取り換える必要はありません。ちなみに、カリスの上に置く四角い板はパラと呼びます。
プリフィカトリウムは吸水性のよいやわらかな布で、長方形をしています。中央に十字のしるしが付けられていることが多いようです。縦長に見て左右に三折り、上下に二つ折りにします。聖体拝領で聖体が触れた唇やカリスの縁をぬぐったり、聖体器のすすぎの後で、パテナやカリスをぬぐったりします。ミサの準備の際には、カリスの上に載せ、その上にパテナを載せて祭器卓に置くのが一般的のようです。聖体に触れ、すすぎの水も吸いますので、ミサの度に交換するのがよいでしょう。特に、ミサで赤いぶどう酒を用いる場合はあまり時間をおかずに洗うとよいでしょう。共同司式のミサでも司祭の人数分準備する必要はありませんが、カリスを複数用いる場合はカリスと同じ数が準備してあるとよいでしょう。
マヌテルギウムは手拭きです。吸水性のよい、十分な大きさの布を用います。プリフィカトリウムと区別するために、布の端に十字のしるしが付けられていることが多いようです。準備の際は手を洗う水と組にしておきます。
聖体に触れた布を洗うときには、まず水ですすぎ、その水は粗末にしないようにサクラリウム(自然浸透する専用の流し)などに流します。
(『家庭の友』14年1月号より)

by nagasakitenrei | 2018-09-19 16:33 | エウカリスチア

奉納行列で運ぶもの

『ローマ・ミサ典礼書の総則』には次のような記述があります。「…キリストが手に取られたもの、すなわちパンと、ぶどう酒と水が供えものの準備として祭壇に運ばれる…」(72番)。「…信者がパンとぶどう酒を奉納することは、ほむべきことである。…今は昔のように、信者が典礼のためのパンとぶどう酒を自分の家から持って来ないとしても、この儀式は霊的な効力と意味を保っている。貧しい人のため、また教会のために信者が持ってくるか、あるいは教会堂内で集めるかした献金または他のささげものも奉納される」(73番)。「…次のものを準備する。…祭器卓に…司式する司祭と助祭と奉仕者と会衆の拝領のためのパン、ぶどう酒と水の入った小びん(ただし、これらすべてが奉納行列で信者によって運ばれない場合)、…」(118番)。「信者が、感謝の祭儀のためのパンとぶどう酒、あるいは、教会の維持と貧しい人々を助けるための他のささげものを奉納することによって参加を表すことが望ましい。信者のささげものは、祭壇奉仕者あるいは他の奉仕者の助けを得て司祭が受け取る。…司式者はパンとぶどう酒を祭壇の上に置くが、他のささげものは別の適当なところに置く」(140番)。
これを読むと、奉納行列の際には「パン」、「ぶどう酒と水」、「教会のための献金やささげもの」、「貧しい人のための献金やささげもの」を運ぶことがわかります。また、「パンとぶどう酒」と「献金」が同じ行列で運ばれることにも気が付きます。ロウソクが先導するのか、花を運んでもいいのか、などについては特に指示はありません。教区によっても小教区によっても、責任者の指示や習慣があると思いますので、「こうすべきである」という必要はありませんし、教皇フランシスコが指摘する「すべきイズム」(『福音の喜び』93~97参照)に気を付けることも大切です。それをわきまえた上で、典礼は見えないものを見えるしるしで表現するということを思い出して、いのちをささげるキリストに結ばれて自分をささげるしるし、教会を支える一員であるしるし、あるいは貧しい人とのわかちあいのしるしとして、奉納行列の際に運ぶものを選ぶことができるでしょう。
(『家庭の友』15年9月号より)

by nagasakitenrei | 2018-09-18 17:33 | エウカリスチア
ミサの典礼で指示されている「あいさつ」とは、「おはようございます」、「ようこそ教会へ」といったいわば日常のあいさつのことではありません。「主はみなさんとともに(主はあなたがたとともに)」――「また司祭とともに(また、あなたの霊とともに)」という司式者と会衆の対話句のことをいいます。
司式者のあいさつは聖書に由来する古いことばで、主の現存(神さまがそこにおられること)を表すものです。主の御使いのギデオンへのあいさつ「勇者よ、主はあなたと共におられます」(士師記6・12)や大天使ガブリエルのマリアへのあいさつ「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」はその典型です。さらに、司教が司式する場合の最初のあいさつ「平和がみなさんとともに(平和があなたがたとともに)は、ユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけた部屋に集まった弟子たちに復活したキリストがかけたことば「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20・19、26)そのものです。
一方、会衆の返答のことばも聖書に由来しています。叙階の秘跡を受けた者が聖霊のたまものを受けた霊をもって奉仕にあたることを宣言するのです(一コリント2・10以下)。復活徹夜祭の「復活賛歌」で、司祭や助祭とともに歌うときでなければ対話句が省かれるのはこのためです。
このように、対話句はミサにおけるキリストの現存を表しています。「ローマ・ミサ典礼書の総則」は「…司祭は、集まった共同体にあいさつをして、主の現存を示す。このあいさつと会衆の応答は、ともに集まった教会の神秘を表す」(50番)と教えています。以前のミサでは公式祈願の前にも対話句がありました。現在のミサの「開祭」、「ことばの典礼」、「感謝の典礼」、「閉祭」のそれぞれ大切な部分に対話句があるのは、典礼憲章が教えるように「キリストの名によって集まるところに」、「ご自身のことばのうちに」、「何よりも聖体の両形態のもとに」、「奉仕者自身のうちに」キリストが現存していることの確認になっているともいえます。
繰り返される対話句の度に、そこにおられる復活のキリストの存在感、気配、息遣いが感じられるように意識してミサに臨みたいものです。
(『家庭の友』14年11月号より)

by nagasakitenrei | 2018-09-18 17:32 | エウカリスチア

共同司式ミサの準備

共同司式ミサとは、複数の司祭が共同で司式するミサのことをいいます。その原型は司祭が自分の司教とともに行う共同司式です。「共同司式は、祭司職が一つであること、いけにえが一つであること、そして神の民全体が一つであることを適切に表現」(「ローマ・ミサ典礼書の総則」199)しています。そのため、叙階式ミサや聖香油のミサでは共同司式が規定されています。共同司式ミサはミサが教会のわざであることの見えるしるしなのです。
準備にあたっては次のような点に留意します。①主司式者はだれか。共同司式するのはだれか。人数を含めて確認し、司教がいてバクルス(杖)やミトラ(司教帽)を使う場合はその置き場所も考慮します。高齢や病気のため行列に加わらないで共同司式する司祭がいればミサが始まる前に席に案内します。②祭服はあるか。正当な理由がある場合、主司式者以外はカズラを省くことができます。③共同司式司祭の席はいくつ、どこにもうけるか。入退堂や聖体拝領の際に移動しやすいよう動線に配慮します。④共同司式司祭の典礼書は必要か。必要に応じてマイクロフォンも準備します。⑤パンとぶどう酒は十分か。パテナ、カリス、コルポラーレ、プリフィカトリウムは必要な数準備されているか。なお、大きなホスチアはパンが分けられるシンボルですから、主司式者と同じものを共同司式司祭の人数分準備する必要はありません。⑥会衆の聖体拝領奉仕に必要な数のピクシス(チボリウム)があるか。
助祭がいない場合は共同司式司祭が助祭に固有のつとめを分担します。福音朗読や平和のあいさつの呼びかけ、閉祭の派遣のことばをだれが受け持つのか確認しておくと安心です。一方で、奉仕者がいない場合をのぞいて、共同司式司祭が大勢いるからといって信徒の奉仕の役目をすべて共同司式司祭にまかせるのは避けます。
大規模な共同司式ミサや叙階式などの他の儀式を伴うミサでは、典礼全体を統括する式典長が任命されていると思います。ミサの前に共同司式司祭に式次第を説明し、役割分担や聖体拝領の手順などを確認します。その他の準備として、大人数の司祭が着替える場所やミサ中の司祭の荷物の管理にも配慮が必要です。
(『家庭の友』17年8月号より)

by nagasakitenrei | 2018-09-18 09:39 | エウカリスチア

祭器卓に準備するもの

ミサは、朗読台を舞台とし聖書が主役となる「ことばの典礼」と、祭壇を舞台とし聖体が主役となる「感謝の典礼」という二つの部分からなり、これに祭儀を始める開祭と祭儀を結ぶ閉祭が伴うという構造になっています。会衆が参加する通常のミサの場合、感謝の典礼が始まるまで、祭壇の上にはロウソクがある場合を除いて朗読福音書以外は何もありません。
感謝の典礼に用いるものは祭器卓に用意します。カリス(ぶどう酒の杯)、プリフィカトリウム(祭器を拭う白布)、パテナ(ホスチアの皿)、コルポラーレ(聖体の敷布)、そして適当であればパラ(カリスやパテナの上にのせて蓋になる板)、聖体拝領に必要なピクシス(=チボリウム。聖体の器)、司式者・奉仕者・会衆の拝領のためのホスチア、ぶどう酒と水の入った小びん、信者の拝領のために用いる受け皿、手を洗うために必要なもの(水差しと手拭きなど)です。カリスはベールで覆うこともでき、ベールはその日の典礼色か白を用います。共同司式ミサのためには司式者の数に見合った十分な大きさのカリスまたは複数のカリスとプリフィカトリウムを準備します。
供え物が奉納行列で運ばれる場合は祭器卓とは別の適当な場所に奉納物を準備する台を設け、ホスチアやぶどう酒と水の小びんをおきます。なお、聖体拝領はそのミサで聖別されたホスチアで行われるのがふさわしいので、行列をしない場合もミサのたびに準備するよう心がけます。
その他に、開祭の回心の儀で聖水を用いる場合は、祭器卓に聖水容器を置いておきます。聖体拝領後のすすぎを祭器卓で行う際には、すすぐ前の祭器を載せるために広げたコルポラーレ(祭壇で用いるものとは別のもの)が必要となります。祭器卓自体に布を用いる規定はありませんが、使用するときには白布を広げておくとよいでしょう。香炉は火を使うため、香舟(香の粉末の容器)とともに祭器卓ではなく専用の香炉スタンドなどに用意します。
(『家庭の友』18年2月号より)

by nagasakitenrei | 2018-09-17 14:49 | エウカリスチア

閉祭

ミサを結ぶ閉祭は、「必要に応じて行われる短いお知らせ」、「司祭のあいさつと祝福」、「司祭による会衆の解散」、そして「司式者と奉仕者の祭壇への表敬」で構成されます(「ローマ・ミサ典礼書の総則」90参照)。他の儀式、たとえば告別式や聖体礼拝が続く場合、閉祭は省かれます。

「お知らせ」:助祭がいるミサでは助祭が行うこともできます。ことばの典礼の舞台である朗読台や感謝の典礼の舞台である祭壇からは行わないのが望ましいでしょう。
「司祭のあいさつと祝福」:ミサ中に行われる司祭の「あいさつ」とは日常の挨拶ではなく、「主は皆さんとともに」という典礼上のことばを指します。会衆は「また司祭とともに」と応じます。祝福は、司祭が左手を胸において右手で十字架のしるしをしながら「全能の神、父と子と聖霊の祝福が皆さんの上にありますように」と述べ、会衆が「アーメン」と答えるかたちで行われます。また、典礼書に指示がある場合、司祭は会衆の上に両手を伸べ、荘厳な祈りのことばや会衆のための祈願を加えることもあります。司教が祝福する場合は十字架のしるしを3回します。
「会衆の解散」:派遣のことばには神を賛美しながら自分の仕事に戻るようにという意向が込められており、復活節にはアレルヤを加えます。派遣のことばは助祭がいる場合は助祭が述べます。
「司式者や奉仕者の祭壇への表敬」:日本では、司式者や助祭は両手で祭壇に触れて深く礼をします。内陣に聖櫃がある場合は、司祭は奉仕者とともに立ったまま手を合わせて深く礼をし、それから祭壇に向かって手を合わせて深く礼をして退出します。閉祭の歌は任意ですが、退堂の行列にともなう歌として歌う教会も多いことでしょう。オルガンのみの奏楽もできます。
開祭の結びの集会祈願と対のように、拝領祈願が閉祭の始めという印象をお持ちの方もおられるかもしれません。拝領祈願は閉祭の始まりではなく感謝の典礼の結びですから、司式者が感謝の典礼の舞台である祭壇で祈願を唱え、席に移動して閉祭を行うようにするとミサの構造をよりはっきり表現できるでしょう。拝領祈願の前にお知らせを入れるのはミサ式次第が逆転していることになります。
(『家庭の友』18年10月号より)


by nagasakitenrei | 2018-09-17 14:39 | エウカリスチア
断食は新約聖書の中で、主を探す、あるいは主を求める行為として描かれています。そこから教会は断食を福音への回心のしるしと考えてきました。教会の伝統は、「祈り」・「断食」・「施し」を回心と一体のものとみなしています。
 ところで、聖体拝領の前に断食をするのは、聖体の姿で人間の中に来られるキリストへの尊敬のため、またキリストに集中するためであると考えられます。
 三世紀の記録には、聖体を拝領する前に他の食物を摂らないように、という指示があります。これを四世紀末の教会会議は勧告として宣言しました。それがやがて規定として広まり、中世になると一般化していきます。
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 断食の時間については、聖体拝領する前夜零時から一切のものを口にしないというものでした。断食ができなかった場合、司祭であればミサを献げることばかりかミサの献げられている聖堂の中に居ることさえ禁じられた時期もあったようです。
 一九五三年に教皇ピオ十二世は断食の規定を緩和し、病人や高齢者の免除規定を定め、また、水は断食を妨げないことを明言しました。これにより、食物とアルコール飲料は三時間、アルコール以外の飲み物は一時間、断つことになりました。時間の計り方は、司祭はミサの始まる時間から、信徒は聖体拝領の時間からさかのぼるようにというものでした。これについては翌年、司祭も信徒も聖体拝領の時間を起点にすると改められています。
 一九六四年十一月二十一日、第二バチカン公会議の期間中に、教皇パウロ六世は新しい断食の規定を公にし、司祭も信徒も聖体拝領の一時間前から、水と薬を除いて飲食を控えることが定められました。また一時間前までは節度を保つならばアルコール飲料も認められることになりました。この規定は翌年、文書でも確認されました。
 現在、聖体拝領前の断食については教会法919条で規定されています。前記の内容の他に、二回目あるいは三回目のミサを献げる司祭、および病者や高齢者とその看護者は、何かを摂取してから一時間の余裕がなくても聖体を拝領することができると明記されています。(『家庭の友』7月号より転載)

写真:「エバ」(フランス/オータン市ロラン美術館)
by nagasakitenrei | 2007-07-08 14:06 | エウカリスチア

主の来臨の約束

「これをわたしの記念として行いなさい。」

イエスのことばにしたがって、教会はエウカリスチアを続けます。
それは、主の晩餐の記念、受難と復活の記念として、キリストの出来事を今ここにもたらすのです。

エウカリスチアはまた、記念だけではなく約束の保証でもあります。時が来ると復活のキリストが再び人に会いに来られることを秘跡の形で保証するのです。
もちろん、エウカリスチアはパンとぶどう酒の姿によって表される復活のキリストご自身ですから、キリストはすでに人の中に来ておられますが、そのキリストが定められた時になると栄光のうちに直接人に会いに来られることを約束するのです。

地上の教会は神の国を目指す「旅する神の民」と呼ばれます。
それは、教会が留まることなく、神への歩みを続ける民であることを表しています。教会は歩む先を見ているということです。

かつて一同が東を向いて祈っていた時代、祈りの姿勢はこの旅する民の見える姿でした。
また現在一般的な対面のミサでは、司式する奉仕者の中に、人に会いに来られ語られるキリストの姿を見ることができます。

「主の死を思い、復活をたたえよう。主が来られるまで。」と歌う心に「マラナ・タ」(主よ、来てください)の祈りを添えて、その時を待ちたいものです。

by nagasakitenrei | 2007-06-09 10:14 | エウカリスチア
同じキリストを信じる者がひとつの教会を形作っていない、というのはキリスト教にとって最大の課題の一つです。
それは「主の晩餐の食卓」を共に囲むことができない、という目に見える悲しみでもあります。
とはいえ、教会一致が実現していなければ、仮に「主の晩餐の食卓」の儀式を一緒に行ったとしても、それは表面的な合同祭儀に過ぎません。
なぜなら、「主の晩餐の食卓」で求められるのは、「キリストの体」という言葉に答える「アーメン」、すなわち「その通りです。そう信じます。」という信仰宣言であり、それは「キリストの体」を信じていることを意味するからです。f0136327_1004233.jpg
「キリストの体」がどのようなものであるかを述べているのが「感謝の祈り」(奉献文)です。
この祈りの中で、供えもののパンとぶどう酒がキリストの体と血であること、またキリストの体である教会は、教皇と司教団をはじめとするすべての役務者・信徒からなる地上の教会と、聖母マリアや使徒をはじめ諸聖人・亡くなった先達からなる天上の教会の姿で世界に広がっていることが述べられています。
「アーメン。」は、これを受け入れているというしるしなのです。この「アーメン」を共にすることができて初めて、教会一致の見える姿として「主の晩餐の食卓」を共に囲むことができるようになります。

現在、カトリック教会の秘跡を拝領できるのは原則としてカトリック信者に限られています。ただし、特別の場合は司教様の許可を得た上で、カトリックでないキリスト信者にも秘跡の拝領がゆるされることがあります。
同じキリストにつながる洗礼を受けているからです。

(写真:ローマ/十二使徒教会地下の壁画)

by nagasakitenrei | 2007-06-08 09:43 | エウカリスチア

聖体礼拝

カトリック教会では聖体のキリストをミサの間だけでなく、ミサの後も礼拝します。
聖別されたパンはミサが終わってからもキリストの体であると信じているからです。
もともと、聖別された聖体を保存するのは、ミサに参加することのできない病人や高齢者、特に臨終の人に届けるためでした。それは、このパンが「いのちのパン」、キリストご自身だからです。やがて、保存された聖体のキリストに対する敬意から信心が生まれ、少しずつ盛んになっていきました。

キリストは「取って食べなさい」と命じられたのだから、保存して礼拝するのはキリストの意に反する、という考え方もあります。
しかし、聖櫃を聖堂のふさわしい場所に安置することや聖体を顕示すること、聖体行列を行うことなど、典礼や礼拝の形は長い時間をかけて出来上がったものです。
誰かの思いつきで生まれたものではありません。そこには信仰の感覚がはたらいています。キリストの現存を体験した感覚です。

キリスト自身が「わたしはいのちのパンである」と教え、ご自分のいのちによって人にいのちを与えることを明らかにされました。
これはキリストの使命全体を意味するものです。静かな聖体礼拝の中で、キリストの使命が人に伝えられていきます。
自分もキリストのように世のいのちのためのパンとなるよう招かれているということです。
聖体のパンの姿で、また聖体礼拝者というパンの姿を通して、キリストは世の終わりまでいつもともにおられるのです。

by nagasakitenrei | 2007-06-07 14:02 | エウカリスチア