長崎教区典礼委員会 ngstenrei.exblog.jp

カテゴリ:いやしの秘跡( 6 )

病者の塗油

病気や苦しみは必ずしも人生の一部ではないはずなのに、実際は人生の一部となっています。
そして人はこれを受け入れるほかはない、ということに悲しみを覚えることもしばしばです。
それは、人は必ず死ぬということを密かに、しかし確かに教えているからです。

今日では、臨終を迎えようとする人は病院で孤独のうちにその時を迎えるか、家族だけに付き添われることが多くなっているようです。
しかし、キリスト者にとって、人の死に際して死に行く者のそばに集まり、最期まで神さまへの信頼を失わないように祈り、魂が神さまのもとに帰るのを見送るのは大切な愛の務めでした。

秘跡の歴史の中で、「終油」と呼ばれるようになった塗油の式は、最期を迎えるその時の秘跡と考えられ、できるだけ後に延ばす習慣が生まれました。
司祭があたかも「死の使い」のように受け止められていた時代もあったほどです。

第二バチカン公会議は、この秘跡を本来の姿である「病者の塗油」に改め、死を迎える人だけでなく、すべての病人のための秘跡、人の苦しみに心を動かされて癒し続けるイエスの姿のしるしに戻しました。
油を塗って病人を癒すのは、イエスから派遣された弟子たちの務めです(マルコ6:13)。
また病人を見舞うことはイエスご自身を見舞うことでもあります(マタイ25:36)。

「病者の塗油」は不治の病を癒す奇跡の薬ではありません。
けれどもこの秘跡は病人に力を与え、本人の苦しみをキリストの受難に結んで人間の救いに協力するものとし、捧げられた苦しみを神の民である教会の力にします。
目に見える使徒職を果たすすべての人の傍には、見えない使徒職を果たす人、病気を捧げて支える人がいるのです。

by nagasakitenrei | 2007-07-06 21:41 | いやしの秘跡

告白

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」(マタイ9:12)

ゆるしの秘跡では、日常の過失についても告白するよう勧められています。
これは、祈りや断食、愛の実践によってもゆるされるものですが、告白を通して、絶えず回心する意思を確かめ、積極的に愛の実践に向かう心を養うためです。
特別の状況を除いて、罪の告白は個別に行います。
それはキリストが病人を「集めて」「まとめて」癒したのではなく、ひとりひとりに触れて癒され、罪のゆるしをひとりひとりに宣言されたからです。

告白を聴く司祭は、告白者がキリストに触れていただくために奉仕します。
また告白を聴くことで司祭は秘跡の奉仕者として育まれていきます。イエスのいやしの場に立ち合うからです。

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写真:ローマ/サン・ルイ・デ・フランセ教会 「マタイの召命」

by nagasakitenrei | 2007-06-26 12:42 | いやしの秘跡

痛悔と告白

ゆるしの秘跡は主に三つの段階を経ます。
痛悔、罪の告白、そして償いの業です。
すべてが整って初めて回心の実りが生まれます。

痛悔は三つの内容を持つと教会は教えています。
魂の嘆き、罪を嫌う事、もう今後罪を犯さないと決心することです。これには長い時間がかかることもあります。
悪を為したこと、あるいは善をなさなかったこと、など、漠然とした不快感や本来の姿ではなかったことについての感覚から、少しずつ過ちを認める心が生まれ、どうして自分がその過ちにかかわってしまったのか問い始めます。
そして、この問いこそが自分の正しさに対する慢心を乗り越えるきっかけになるのです。
自分を乗り越えること、それは新しく生まれることにつながります。

伝統的に、愛がなかったことを痛む心から生まれる痛悔は「完全な痛悔」、罰に対する恐れから生まれる痛悔は「不完全な痛悔」と呼ばれますが、痛悔は人が努力して獲得するものではなく、神さまの恵みとして与えられるものです。

痛悔は、人に過ちを告白するよう招きます。
告白によって和解の責任が果たされるからです。隠れた傷である罪を告白するのは恥ずかしいかもしれません。
これについて聖ヒエロニモは、「人が医者に傷を見せるのを恥ずかしがるなら、医者はわからないものを治療することはできない」と、告白者を励ましています。
告白を聴く司祭は、イエスのゆるしによって隠れた傷にいやしを与えるのです。

by nagasakitenrei | 2007-06-24 17:43 | いやしの秘跡
「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。」(ヨハネ20:23)

キリストはご自分の血によって人に神さまからのゆるしをもたらしました。
キリストの生涯は神さまと人との和解を実現するものでした。キリストは弟子たちに、この和解のためのはたらきを委ねられます。
教会が、キリストがもたらされたゆるしのしるし、また道具となって、キリストの名によって和解のためにはたらき続けるのはこのためです。

ゆるしの秘跡のかたちそのものは、歴史の中で大きな変化を遂げました。
聖パウロの時代、洗礼以後に重大な罪を犯した信者は共同体から除外される、という厳しい措置が取られていたと考えられています。
初代教会でも、重大な罪を公に犯した者は、公に長い悔い改めの期間を経て、最後にゆるしを受けるというかたちを取っていたようです。

中世になると、特にアイルランドの修道士の影響で、個別の告白によるゆるしの秘跡が行われるようになりました。
長い償いの期間を終えてから、ではなく、告白をするとすぐに罪の赦しが与えられるというのも特徴でした。
以来、現在にいたるまで教会のゆるしの秘跡はこのかたちで行われています。

ゆるしの秘跡には消極的なイメージがあるかもしれません。
しかし、ゆるしの秘跡の中身は「あの晩」の出来事と同じ、復活のキリストとの出会いです。
信じる者に聖霊を与え、和解と平和を与えられるキリストとの出会いなのです。

by nagasakitenrei | 2007-06-19 20:49 | いやしの秘跡

罪を赦す

「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」(マルコ2:7)。

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写真:フランス/ブルターニュ地方、プレイベン村の教会内告白場

罪の本質は神さまに反対することです。神さまだけが罪を赦すことができる、というのはこの意味です。
ところが、人は自分の失敗や互いの不和、不親切、裏切り、傷つけあい、などを罪と感じるほどには神さまに対する罪を感じることができないことが多いようです。
イエスの福音宣教生活の始めは回心への招きでした。
回心した人は神さまの愛と人への愛に敏感になります。そして愛を体験すると罪に気付くようになります。
神さまからの愛を拒み、神さまが大切にしておられる人を愛することを拒む、これが罪だからです。

イエスの使命は人に罪の赦しをもたらすことでした。
宣教生活の終わりに「罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血」を流されたのはそのためでした。
そして、イエスはこの使命を果たし続けるために、弟子たちに赦しをお委ねになりました。
神さまであるイエスの力によって、教会は人に罪の赦しを与えます。
それは教会の秘跡を通して、イエスご自身が今もはたらいておられるということです。

by nagasakitenrei | 2007-06-13 21:41 | いやしの秘跡

秘跡によるいやし

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秘跡はかつてイエスが地上でなさったことを今実現するものです。
秘跡を通してキリストは今も人に触れ、力を与え、いやしをもたらされます。キリストが触れてくださると、人はいやされます。

キリストのいやしは、単なる病状の治癒ではありません。
寝床ごと吊りおろされた中風の人に向かって、キリストは「子よ、あなたの罪は赦される。」(マルコ2:5)と言われました。
キリストのいやしは悪からの解放、特に神から離れるという悪、つまり罪からの解放なのです。
人は神と和解せずに健康であることはできません。同じ言葉が「健康」と「救い」を意味することもあるほどです。

秘跡は魔術でも麻薬でもありません。キリストは不老長寿の薬を残されたのでもありません。
秘跡はキリストが教会を通して今もはたらき続けておられるしるしです。
それは、涙の谷であるこの世で、いやしを必要とし続ける人間に、いやしを与え続けるキリストの手、「みんなまとめていっぺんに」ではなく、ひとりひとりに触れてくださる手なのです。

by nagasakitenrei | 2007-06-10 10:07 | いやしの秘跡