カテゴリ:典礼と秘跡( 51 )

キリスト教入信の秘跡

洗礼・堅信・聖体の秘跡はキリスト教入信の秘跡と呼ばれます。初代教会時代、キリスト教に入信を希望する志願者は、しばしば司教自身から教えを受けていました。三年ほどの準備期間に「信仰宣言」や「主の祈り」を授けられ、学び、生活の振り返りを行い、現在の四旬節にあたる最後の準備期を経て復活徹夜祭に入信の三つの秘跡を受けるのでした。

f0136327_10395888.jpg時代が下ると、特に地方では入信式に司教が立ち会わないことも多くなりました。また幼児洗礼も一般化してきます。このため、入信の秘跡の取り扱いに変化が生じました。
東方教会では、司教が不在で洗礼を受ける者が幼児であっても、入信の秘跡を一体のものとして執行し、洗礼・堅信・初聖体を授けるようになりました。これは現在まで一貫しています。
一方、西方教会では、堅信を司教が授ける秘跡として延期するようになりました。そのため、入信の秘跡の順序は必ずしも守られなくなりました。

第二バチカン公会議の典礼刷新によって、入信の秘跡は本来の姿を取り戻します。成人の入信式では、司教が不在でも洗礼・堅信・初聖体を一つのミサの中で行うようになりました。幼児洗礼の場合は、洗礼・初告白・初聖体・堅信という順序が現状ですが、入信の秘跡本来の姿で実現するにはどうしたらよいか、現在も研究が続けられています。順序にこだわるのは、聖体に向かうという入信の秘跡本来の姿をより良く表現したいからです。初告白を洗礼の約束の更新として信仰宣言とともに行い、堅信、初聖体という入信の秘跡を実現できる時を待ちたいものです。
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by nagasakitenrei | 2007-05-06 10:40 | 典礼と秘跡

七つの秘跡

カトリック教会には、洗礼、堅信、聖体(エウカリスチア)、ゆるし、病者の塗油、結婚、叙階の七つの秘跡があります。誕生、成長、食事、いやし、婚姻、はたらき、という人生の出来事にある意味で平行するかのように、信仰生活の中で体験していくものです。
『カトリック教会のカテキズム』は七つの秘跡を、キリスト教入信の秘跡(洗礼・堅信・聖体)、いやしの秘跡(ゆるし・病者の塗油)、交わりと使命に奉仕するための秘跡(結婚・叙階)の三つに分けて説明しています。聖体は入信の秘跡の一つに数えられていますが、実際は七つの秘跡の中心であり、他の秘跡は聖体の秘跡に向けられています。初聖体によって入信の秘跡が完了し、そこから生涯に渡る聖体に養われる生活が始まるということになります。
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by nagasakitenrei | 2007-05-05 09:43 | 典礼と秘跡

多様な典礼伝統

キリスト教が伝わっていく歴史の中で、典礼の表現は多様な伝統を持つようになりました。はじめに日本にキリスト教を伝えたのはローマ・カトリック教会の宣教師でしたし、明治期のカトリック宣教師もローマ典礼に属する人たちでしたから、日本のカトリック教会はローマ・カトリック典礼の教会として現在にいたっています。歴史的な事情もあって、西方典礼と呼ばれる典礼の中で、世界でもっとも一般的なカトリック典礼です。(東西の呼称はかつてのローマ帝国の領域に由来するもののようです)

f0136327_1012516.jpg一方、イコンや香を多用し荘厳な儀式のイメージのあるキリスト教典礼は東方典礼と呼ばれ、ギリシアやロシアをはじめ、中東地域で発展しています。その東方典礼の教会の中でカトリック教会に属する教会を東方カトリック教会といい、ローマ・カトリック教会と典礼形態は違いますが、同じカトリック教会のメンバーです。
このような典礼の多様性は、唯一のキリストの救いの出来事を、長い長い時間をかけて様々な文化の中で表現してきた結果です。今から1000年ほど後の時代には、アジアやアフリカの典礼伝統も見られることでしょう。
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by nagasakitenrei | 2007-05-04 10:01 | 典礼と秘跡

聖堂、神の家

聖堂はミサの場、聖体の安置される場、信者が集まる場、キリストが現存される場です。聖堂はそのためにふさわしい美しさと機能を備えている必要があります。ロマネスク式、ゴシック式などと呼ばれるのは建築様式ですから、聖堂がふさわしい場として整えられているかどうかは典礼との関係で判断されることになります。

f0136327_11144529.jpg朗読台はみことばの食卓と呼ばれ、聖書のことばにキリストが現存される場です。また聖体の食卓と呼ばれる祭壇は、キリストご自身のシンボルで聖堂の中心です。それは、キリストが十字架という祭壇でご自身をささげものとしてささげる祭司だからです。朗読台と祭壇はキリストの唯一の食卓で供されるみことばと聖体を表現しています。
また聖堂には聖櫃も置かれています。聖櫃は聖堂内のもっともふさわしい場所に、敬意をもって設けなければなりません。慎ましいパンの姿で、キリストは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という約束を果たしておられます。象徴的にでも精神的にでもなく、現実に、聖堂は神さまの家なのです。
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by nagasakitenrei | 2007-05-03 11:15 | 典礼と秘跡

「いつも目を覚まして祈りなさい。」(ルカ21:36)

キリストは心をいつも神さまのもとに置いておくようにお命じになります。無意識の呼吸のように、意識したり声を出したりしなくても祈りが続いているようにということです。

絶えることのない祈りは教会によっても実現します。キリスト者の祈りはいつも教会のメンバーとしての祈りですから、地球の動きに合わせて夕べがあり朝がある世界では、いつもどこかで教会が祈っていることになるのです。

「教会の祈り」は、「時課の典礼」あるいは「聖務日課」とも呼ばれるもので、ユダヤ教の祈りの伝統を受け継ぎ、教会の歴史の中で発展してきた祈りです。特定の時間に、詩編を中心とした聖書のことばで祈るこの祈りは、修道者や聖職者が果たす「祈りの務め」という性格があったのは確かですが、現在は「教会のメンバーが教会の名で行う祈り」として「教会の祈り」と呼ばれています。朝晩の祈りを二本の柱として、昼の祈り、寝る前の祈り、読書の祈りがあり、典礼暦に合わせた詩編、朗読、賛歌を用います。
このように、「教会の祈り」は「いつも祈りなさい」というキリストの教えを実践する具体的な方法として、毎日の時間を神さまに捧げられた聖なるものに変えていきます。
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by nagasakitenrei | 2007-05-02 10:37 | 典礼と秘跡

日曜日

二世紀のユスチノという人は、キリスト者が太陽の日と呼ばれる日に集まっていたことを書き残しています。今日にいたるまで、日曜日の集まりは教会の見える姿となっています。聖書の数え方によれば、土曜日の安息日で一週間が終わります。キリストの復活した日は「週の始めの日」、日曜日でした。そのため、日曜日はキリスト教会の基本的な祝日で、「主日」と呼ばれるのです。
主日の頂点はミサ(感謝の祭儀)です。司祭がいないところでは、集会祭儀が行われます。事情が許せば交通手段を用いてミサのある場所まで出かけることもできます。いずれの場合も大切にされているのは、この日、復活したキリストのもとに集まること、そしてキリストの心をもってそこから出かけることです。キリスト者が祝うのは、1時間ほどの礼拝だけではなく、日曜日全体なのです。
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by nagasakitenrei | 2007-05-01 11:34 | 典礼と秘跡

典礼暦

典礼暦は、キリスト教が時間をどのように生きているかを表現し、体験させるものです。キリストの死と復活によって時間の新しい意味、すなわち時間は死に向かう流れではなく、新しいいのちの力に満たされてキリストに向かうものであることが明らかになりました。典礼暦を体験すると、一年、一週間、あるいは一日をキリストに向かう「とき」として見ることができるようになります。
典礼暦は復活祭にを中心に編まれています。復活祭に向かっていく四旬節、新しいいのちの生き方を教え、実践させる復活節、そして聖霊によって証人として派遣される聖霊降臨です。
また、もう一つの軸があります。神が人となられたことを祝う降誕祭です。教会は、人として地上で生きたイエスの主な出来事、神殿奉献や洗礼、変容などを祝い、毎日曜日、あるいは毎日、福音が伝えるイエスのわざとことばを「今日」の出来事とします。
とはいえ、聖書が伝えるイエスの出来事を祝う典礼暦のの源泉はいつも復活祭です。「そのとき」「そこに」おられたイエスが、典礼では、復活のキリストとして「今」「ここに」おられるからです。
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by nagasakitenrei | 2007-04-29 21:12 | 典礼と秘跡

今日

「今日、神の声を聞くなら、神に心を閉じてはならない。」(詩編95)
「今日こそ神がつくられた日」(典礼聖歌87番・・詩編118)
「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。」(主の祈り)

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キリストは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)と約束されました。それは人が思いめぐらす未来のある時点にキリストが待っておられると言うことよりも、毎日、今日と呼ばれる時をキリストがともに過ごしてくださると言う意味です。典礼の「今日」は、人と神さまの「今日」であり、昔地上におられた思い出のキリストではなく、「今日」ともにおられるキリストを示しています。典礼を通して、「今日」をともにしてくださるキリストの気配を意識したいものです。
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by nagasakitenrei | 2007-04-28 09:38 | 典礼と秘跡

典礼美術

「あなたはいかなる像もつくってはならない。」(出エジプト記20:4)。
2世紀ごろのものと思われるキリスト教徒の墓には、旧約聖書や福音書の物語を主題にした装飾を見ることができますが、聖画像という典礼美術が認められるかどうか、教会の歴史の中でくりかえし議論がありました。カトリック教会は、キリストの受肉、すなわち見えない神さまが見える姿となられた出来事を根拠に、キリストの姿を描き表すことができると教えています。聖書が人の言葉で伝えられた「神のことば」であるように、聖画像は人の目に映る姿で表された「神の姿」である、という考え方です。
どんな聖画像も、キリストや聖母・諸聖人を完全に描くことはできません。それでも聖画像は典礼美術としてキリストや聖母・諸聖人を思い出させ、人の心にその現存を刻みつけます。祈る人は、作品ではなく、十字架のキリストに、幼子を抱く聖母に祈っているのです。
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by nagasakitenrei | 2007-04-27 09:47 | 典礼と秘跡

典礼音楽

聖書を信じる人々が伝えてきた「詩編」は、祈りの模範と言われます。また「詩編」は、祈りのことばが歌われてきたことを証ししています。「よく歌うものは二倍祈る」と古くからの格言にあるように、典礼の場には音楽がいつもあるのです。
典礼音楽が音楽による祈りである以上、全会衆が歌う聖歌や賛歌が大切であることは言うまでもありません。同時に、祈願文や奉献文など、代表がささげる祈りを聴きながら、会衆がそれを自分の祈りにする祈り方があるように、典礼音楽においても代表が歌う聖歌を聴いて、自分の祈りにする祈り方があると言えます。聖歌隊や演奏家と会衆が、それぞれに任された歌う祈りをささげることで典礼音楽は常に行動的な典礼参加の場となるのです。
f0136327_044618.jpgカトリック教会は歴史が磨きあげてきたグレゴリオ聖歌という典礼音楽を持っています。新しい時代に生まれる沢山の作品についても、典礼音楽であれば、その役割や精神はグレゴリオ聖歌が持っていたものと調和します。作品の持つ典礼の精神こそが典礼音楽であるかどうかを見分ける鍵であると言えるでしょう。
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by nagasakitenrei | 2007-04-26 19:42 | 典礼と秘跡