長崎教区典礼委員会 ngstenrei.exblog.jp

秘跡におけるキリスト

秘跡とは「ことば」と「しるし」によって見えない恵みを表し、表している恵みを確かに与えるものです。これはキリストの地上でのはたらきから始まりました。キリストはご自分の「いやし」や「救い」のはたらきを、見える形で人に示されたからです。ことばをかけたり、耳に指を入れたり、傷口に触れたりすることで、キリストは「見えない恵みを見せてくださった」、言い換えれば「恵みに触れさせてくださった」のでした。
福音書が伝える「いやし」や「救い」の物語を読むと、恵みに触れるために、キリストはいつもご自分を信じることを求めておられるのがわかります。信じる人にとって、ナザレのイエスは見えない神さまの見える姿でした。そこで、キリストはもともとの秘跡という意味で「原秘跡」と呼ばれることがあります。そして、地上のイエスが見えない今、その見える姿としてはたらく教会も「原秘跡」と呼ばれます。見えないけれどもはたらいているキリストの「いやし」と「救い」の見えるしるしだからです。
# by nagasakitenrei | 2007-04-16 23:15 | 典礼と秘跡

「典礼」ではたらく聖霊

典礼が「人のための神さまのはたらき」であり、「それに応えて人が神さまにささげる礼拝」であることに気付かせるのは聖霊です。聖霊は、典礼の中で人に向かうキリスト、父なる神さまに向かうキリストの姿をわたしたちに見せてくださいます。聖書の言葉が神さまのことばとしてわたしたちに届き、パンとぶどう酒が父なる神さまに献げられたキリストの体と血であると信じられるのは聖霊がはたらいておられるからです。こうして、聖霊は、典礼の中でキリストの救いのはたらきを体験するように、わたしたちを準備してくださるのです。
また聖霊は「聖なるものにする霊」としてはたらかれます。典礼の中で、聖霊の直接のはたらきを示すしるしには「按手」や「塗油」があります。
# by nagasakitenrei | 2007-04-15 08:02 | 典礼と秘跡
典礼の中心はキリストです。降誕祭はキリストの降誕を、復活祭はキリストの受難と復活を祝います。典礼暦を見ると、他にも主の昇天、主の洗礼、主の変容と、何よりもまずキリストの出来事を記念していくことがわかります。
典礼で「記念する」とは、「思い出す」だけではなく「今の出来事にする」という意味があります。典礼祭儀はママゴトや真似事ではありません。それは、「今」「ここで」キリストが行われる、人の救いと神さまの栄光のためのはたらきなのです。
# by nagasakitenrei | 2007-04-14 09:46 | 典礼と秘跡
「典礼」は人のための神さまのはたらきであり、人がささげる礼拝はいつもその応えですから、この循環するはたらきのはじまりは父なる神さまであることがわかります。この父なる神さまのはたらきかけは「祝福」(ベネディクション)と呼ばれます。祝福されていることを人がわきまえて、祈りや生き方を通して神さまに祝福を返すと、今度は人が神さまを「祝福する」ことになります。(聖体賛美式のことをベネディクションと呼ぶのはこのためです。)
わたしたちは、ミサの「ことばの典礼」で神さまのはたらきかけ(祝福)を思い出し、感謝の典礼でこの「祝福」に感謝して祈ります。その中心にいるのは、父から出て父のもとに帰る「祝福そのもの」であるキリストです。
# by nagasakitenrei | 2007-04-13 10:36 | 典礼と秘跡

「典礼」ということば

 「典礼」と訳されていることばは、「市民社会での奉仕」あるいは「公の礼拝」という意味を持っていました。キリスト教の伝統では、第一に「人のための神さまのはたらき」を、第二にその応えとしての「神さまに捧げる礼拝」を指しています。ですから、その究極の姿はキリストご自身ということになります。神さまでありながら人のためにご自分のいのちを賭け、ご自分のいのちを父である神さまに捧げものとなさったからです。これは今も、特にミサ(感謝の祭儀)で実現していることです。
 典礼はキリスト信者のはたらきの泉であり頂点であると言われています。それは「人のための神さまのはたらき」と「それに応える礼拝」の体験から、神さまのはたらきに参加して人のために尽くす愛、人の中におられる神さまに応える愛が生まれてくるからです。
# by nagasakitenrei | 2007-04-12 21:09 | 典礼と秘跡